なにが嫌かと言うとねえ・・・
だいたいにおいて、人生というものはこういうものか、という見極めがつくまで生きてきても、やはり、今さらながら、時として生きていることに絶望する瞬間があるのである。よくよく考えてみれば、絶望して、生きること自体がうざったいと感じる要因は、それほどバラエティに富んでいるのではない。かなり限られたものであることが分かる。殆どの人たちと共有できることだろうが、それは卑しい人間性と直面し、その影響をもろに受けるときではないだろうか。
勿論、卑しさといっても、いろいろな現れ方がある。しかし、この概念性に限っては、現出の仕方が多様であっても、その卑しさの影響を受ける側は、たぶん、次のような感覚に苦しめられる。強圧的であるがゆえの束縛感、自由の観念の喪失感、自分が属する環境が閉塞していくに従って増していく息苦しさ、これらが抽象化し、概念化された概念性を総称して不条理というのである。僕たちは、このような卑しさがもたらす不条理に直面すると、とても耐え難き気分、感情を裡に抱え込むことになる。心の繊細な人は、適応障害、不安障害、抑うつ症状、うつ病、統合失調症、等々、精神の病のオン・パレードに見舞われる危険性さえある。昨今、あまりに多く頻発するパワハラ、セクハラなどという犯罪的行為の底には、そういうことをやってしまう人間の心の底に沈殿した、卑しさそのものがある。この種の卑しき人間が組織の上層部に居座ると、その組織自体が閉塞し、腐る。決して発展や繁栄は望めない。組織的頽落が現れるまでに要する時間の差異だけの問題であり、凋落の憂き目に遭うこと、必然である。もし、あなたが、こういう卑しき人の下で働いているのであれば、どれほど我慢してもあまり意味がない。危険回避、これのみである。賢い危険回避の方法を考えることが最も重要な課題である。
さて、今日はもう一つ。卑しさの象徴的現れについて語ろう。それをひと言で言ってしまえば、偽善。偽善をなす偽善者のことである。この世界には偽善者という範疇に入る人間があまりにも多い。一見して、人当たりがよい、一見して、優しげな言葉をかけたがる雰囲気の持ち主、一見して、社会的正義を口にするような薄っぺらなヒューマニスト、等々。しかし、こういう人々こそ、自分を守る術に関しては、天才的な嗅覚を持っている人たちだ。逆に言うと、自分にとって不利益になるようなことが身に降りかかると、まさに卑しき心性がもろに顔を出す。誤魔化しようのない醜悪さだ。こういうこととは無関係に生きたいものだが、誰もが例外なく集団の中で生きている以上、ソローの「森の生活」すらたいした模範にはならない、と僕は思っている。
生きていて、楽しかったと思える生涯を閉じたいと思う。これは心底思うのである。あまりにつらきことがあり過ぎた。人との関係性が、人の幸不幸を決定づける最大の要因である。その意味では金などどうだってよい。日本人にはよき言い回しが流通していたではないか。金は天下のまわりもの、というような。それでよいではないか。金の切れ目は縁の切れ目。これもいい。金銭でしかむすびえない関係性など、ドブに捨ててもいいはずだ。ともかくも、残り少ない人生なのだ。これでよかった、と思える生を閉じたいと切に願う。今日の観想として、書き遺す。
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長野安晃
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